昭和50年06月07日 朝の御理解



 神 誡
 「神様は今日は、何を教えて下さろうとしておるか。と言う事を聞いて頂きたい。」

 神と言う字は片仮名のネ、ネ扁に申すと言う字が書いてあります。ですから信心はね、寝乍ら(ネながら)申すとでも申しましょうか、楽をしながらおかげを頂く事と言う事は、絶対出来んです。体得する事も勿論出来ません。言うなら楽をしいしいおかげを頂こうなんてん思うたって絶対おかげは頂かれません。勿論信心あのう、ね、まあ言うならばです、お参りもせんなりにおかげを頂こうと思うたり、修行もせんなりに、おかげを頂こうと思うたりと云う事をでは絶対におかげは受けられません。
 そう言う例えば事を誡める、と言う今日は御理解になるのですから。楽をしながらども、おかげを頂こうと云う様な甘い考えを捨てよ、と云う事を今日は聞いて頂きたいと思うです。何故かと云うとね、それでは信心が解りません。もしおかげは頂いても、信心が解りません。それは自分の頼む時だけお参りして来てから、おかげを受けておると言う事実はあります。只本当に自分が頼む時だけしか参って来ん。
 そう言う人も此処には沢山あります。それでも矢張りおかげは受けてますけれども、それでは信心が解らんと言うのです。ね。信心を解らして頂く為には、言うならば楽な言うならば何と言いますかね、横着な考えと云うても良いでしょう。言うなら実意を欠いだとも云うて良いでしょう。そう云う信心からは信心は生まれて参りません。昨夜企画の方達が夜遅くまでいろんな企画をなさりました。
 何時も文男先生が済んだら裏の方へ来て呉れますから、待っとりますけれど来ませんもん、だから食堂まで出て来ましたら、食堂でまぁ信心話に花が咲いておる所で御座いました。それから私くしもそこで寝間着のまま加たらして頂いて、それからもう一時頃までだったでしょうか、それから文男さんは私しの所へ足を揉みに来て呉れました。もうそれこそ私くしは、寝ながら足を揉んで貰いながら、文男先生は足を揉み乍ら、余んまり一生懸命もう楽しそうに話すもんですから。
 こちらも堆もう睡気も付かんでとうとう徹夜でお話をし続けました。もうあんた三時二十分である、それからシャワーを掛かってまぁ丁度その時間までです。だから二時間余り足を揉んどる訳です。もう本当に夜中にですね、十二時一時頃から足を揉んで、もうそれこそあのうもう疲れとりますし睡うもあろうけん、早よう一っ時でも早う寝んでたいでしょうし、休んで貰いたいとも思いますけども、兎に角一生懸命力を入れる、お話しも力が要ると云う訳です。
 最近色々とおかげを頂いとる話を致します。寝ながらそれを聞かして頂いとりましたら、神様からこんなお知らせを頂いた。鉛筆ですこの鉛筆をねこう云う、握っっている訳ぢゃないです。こうやって親指と人差し指との間に、こう云う風にやる所を頂くんです。そしてこの親指とこの人差し指との間に、小さい鉛筆の芯を持って、その鉛筆の芯でこう字を書いておる所を頂きました。
 今あんたがお話を聞きよったら、こげなお知らせを頂いたが。まぁあんたの信心が、例えば字を書いておる、また書ける鉛筆の芯があれば、ちょいと摘んでも書けるね。けど折角ここに鉛筆をここにこうやって放さずに持っておると言うな、こんな風にしとるね、こん中でゆらぁゆらぁしとる鉛筆が、折角なら鉛筆をしっかり握ってね、あんたが書く様になったら素晴らしい信心、素晴らしいおかげになって行く事だろうと言うて、「それはどげな事でしょうか。」
 「そこはあんたが考えじゃこて」と言うところで、丁度三時二十分でした。そこで私しはシャワーを掛かる。あんたも一時間あまりなっと一寸寝みなさいと言うて、今朝分かれた訳ですけれどもね。結局あのう握るところを握って居かないと駄目だと言う事です。信心のねちゃんと握る所を握っとかにゃ、信心の言うならば急所をチャッと握っとかにゃ、それをねなら、文男先生が場合はね、鉛筆の芯の是位ばかりの短い芯です、芯を握って書いておると云う事は。
 文雄先生、皆さんご承知の様に非常に心を大事にする人です。とにかく信心を頂く様になって二十四、五年になりますが、とにかく以来腹を立てんと決めた男ですから、どれ位心を大事にしなければ、それが実行出来ないかと云う事が解るでしょう。どんな場合でももう腹を立てないと、もう是だけでも大した事です。いわゆる芯を大事にするとです芯をね。そこにきまでは充分解ったらしいです、芯一つで言うならばおかげを頂いとる訳です心を大事にして。
 お話を聞きますと、成程信心のおかげじゃあるの、おかげじゃあるのと神様の方へ使う時間と言うものは、言うならどれだけ使うても、神様のお繰合わせと云う物は、何とも言えんおかげが頂かれる。今朝からも電話が掛かって参りまして、こうこうと言うまあ高級な呉服物の反物の注文があった。そこへ丁度その頼まれとる反物がそれに間に合う様な反物が送って来たちゅ。もう間髪を入れずお繰合わせを頂いて、まあ言うなら今日一日は神様の事の為に、自分を行使して頂いても良いと云う様なおかげです。
 そう言う意味でのお繰合わせをずうっと続けておる。そう云う素晴らしいおかげですけれども、それは芯を大事にする芯でおかげを書いておると云う事です。皆さん本当に信心さして貰うならね、もう本気でねその位一心発起させて貰わな駄目ですよ。皆さん御承知の様に文男さんが腹かいた顔を見た事はないでしょうが、二十五年前に信心するからにゃ、腹は立てんと決めた。
 そりゃは問題は、腹を立てんならん様な問題はどれ位あったか解らんでしょう。けれども絶対腹は立てんと決めたから、もう腹は立てん、それ位に芯を大事にしとる。けれども鉛筆を握って居ないと言う事です。まあだ本当の所を握っとらんと云う事です。それが今日言うならば、ネ乍ら申すと言う字が神と言う字なら、それをなら今日の御理解付けますとね、楽をしながらおかげは頂かれんと。この鉛筆と云う事はどう云う事かと、是は削らにゃ芯が出て来ませんね。
 と云う事はどう云う事かと言うと、身を削り心を削ると云う事なんです。そこでどう云う事になるかと申しますとね、んならお道の信心での言うならば急所と云うか握り所と言うなら、私しはもう天地書附けに帰すると思うです。生神金光大神、天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にありね、一心に願えと言う事はです、家から一心に拝みよりますとそう云うもんぢゃないです。一心を立てたならばです、一心を立てておる印を見せなければ駄目なんです。
 私くしはこの位に一心を立てております、そこに修行が要求される訳です。お前は一心一心ち言いよるが、どん位でん一心を立てとるか、ハイこの位五寸ばかり、一尺ばかり、それこそもう両方の手で、こうするのしこ一心を立てとると言う人もあるでしょう。なら立てとる印は、何処にあるか現してとるかと、毎日の例えばお日参りに一心を立てておる印を現しておる、と云う事にならにゃいかんです。
 毎日毎日拝んでから、毎日毎日参ってからおかげを頂く為に、参りよりますと云うのでは、それは本当の自分の一心を神様に見て頂く、現すと云う事にはならんのです。身を削り心を削ると云う事。先日壮年部会の時に、五日の晩です、久留米の石井喜代司さんがお話しをしとるのを聞かして頂いてです、ほんなこてねあんたはお参りして来んでん、おかげを頂く筈ねと言うた事でした。
 この人はもう月に一遍か多か時で二遍です。それで居てですもう本当に夕べも秋永先生と話した事でしたけれども、あの人が口で言いよる事ば、実際に行いよるけん、おかげを頂く筈と言うた事でした。そりゃ素晴らしい話をします。それがそう云う話が生まれて来るんです。自分が、体験です是はだから皆さん、それは例えば本当にですよ皆さん、お参りはして来ん、此処には参っては来んでもですね、その代わり例えばあのう親先生と云う事は忘れはせん。合楽の教会と云う事は忘れはせん。
 おかげの泉だけは、それこそ何回も繰り返して読む。それこそそれこそ御理解の言うなら、文字が書いてあるなら、文字と文字とのその間を読んで行くちゅう位の人ですこの人は、ね。そりゃもう一つの驚きですよ。なら此の人も文男さんと同じ事で、腹立てたら馬鹿らしかという生き方の人です。そして話を聞いておるとですね、もうあんたばさりゃずうっと心行を寝ても覚めてもし続けておると云う事です。
 成程あんたがしこそれだけの心行がね、それこそ寝ても覚めてもその事を思い続け、そして、どうすれば神様に喜んで頂くかと言った様なことを、そのうそれは参って来んなりにでも、そう云う修行をさせて頂けば、まぁその程度のおかげなら受けれる訳です。文男先生の信心をです、文雄先生は今頂いておる程度の信心ならば、鉛筆の芯ででも字は書けると云う事です。けども依り良い信心を体得すると言うか、より愈々大きなおかげを願わして貰う、いやぁ徳を頂きたい力を受けたいと言うならばです。
 もちっと本当のところの、握るところを握らなければ駄目です。それには鉛筆を以てお知らせを下さったところにです、なら文男先生がその鉛筆の事とはどう云う事でしょうか、と言うそれはあんたが心でねらぢゃこて、とまあ言いましたがです、言わばそれに対する答えです。それは先ず身を削り心を削りする事なんです。一生懸命皆さんが睡い時間をです、言うならば神様にお供えする様な気持ちで、朝参りでもして来ると云う事は身を削っている訳です。一生懸命に改まりに改まり。
 心行を本気で続けておる事は、心を削っておる訳です。身を削り心を削りする所にです、しかも焦点の握り処と言うのはどう言う事かと言うと、所謂和賀心にあるのですおかげは。和賀心とは、和らぎ喜ぶ心にあるのです。ですから何時でもどんな場合でも、そんな身を削り心を削ると言う様な信心をさせて頂きながらですよ、させて頂きながらその焦点と言うか、握り所と言う物は、何時も天地書附けの所に置いてあって一心が、一心に願えと仰る一心が立っとるかどうか。
 一心を立てと印を何処にか見せておるかどうか。そしてどう云う例えば事柄であっても、苦しい事であっても、問題であってもです、その答えは、和賀心を目指さなけばならないと言う事です。ここん所をちゃんと、握る所を握っときませんとです、握る所を握っとかんと、本当な信心の徳にはならない。昨日勿体島の小西さんが、今ご主人と二人でこの頃は体が弱いので、ご主人が悪いのでお参りになります。会社に勤めておられますから、お医者さんの言うなら診断書ですか、が要る訳です。それでお医者に患って(罹って)も良いだろうかと言うてお伺いです。
 皆さんどうぞ其処んにきは一つね、医者に合楽の人達は医者に掛かったら何か悪い事しよるごと思う人もありますけれどもね、決してそうじゃないです。それは決して医者のする事が良い事とは思われません。薬は毒だと言われる位ですから、もう薬は毒です。けれども信心によって、是は医学的に言うてもそうでしょうけれども、その毒を変じて薬にすると云う所に医術があるのです。
 もう是は絶対薬害と言うのはあるです、間違いないです。特にならこの今のリユーマチの様な病気なんかちゅうのは、まぁだ決め手がないのですから、医学では。だからあれが良かろう、是がちいった良かろうと言うてしよると、今度は体の方がコンニャクの事なってしまう訳です。ですから信心させて頂いてです、握るところを握って医者に掛かると云う事。薬を飲むと言う事になると、医薬も又毒でも、変じて薬にする働きを下さるです。医者があぁた間違えちから注射で殺すと言う事は。
 もうそれはもうそれこそもう沢山ありますよね。内田さん所のお父さんなんかは、ほんなお医者さんが注射しに来なさってから、途端に亡くなられたとですから。まだお医者さんが出掛けて、そこまで来とる時じゃったけん、呼びに行ったら、それは私の注射で死んだっちゃなかばの、ちゅて言い訳さっしゃったと云う事で御座いますけれど、是はもう絶対注射のショック死ですよ。
 又は注射の射ち違い薬の盛り違い、そんな事はやっぱ中々表面に出しません。自分が失敗しとっても、それはやっぱり寿命が来たから死んだとしか言やしません。だからもう言い訳は確かに医者はしますね、沢山言い訳します。もう軽かったっちゃ重か事言います、そん時には死んだ時にやっぱ気が楽なんです、そして良うなら、あげんひどかつが私しのね言うならば御陰で助かった、とこう言われる訳ですからそう云う訳です。ですからね確かに薬は毒と云う事を知っとかにゃいかんです。
 だから願わにゃ居られんのです。毒でも盛って貰わにゃやっぱり居られん時がある訳です。ね、例えばモルヒネなんかと言うひどい薬なんかと言う物は、もう愈々あの苦しい時にはそれどん射って貰わにゃ、どんこんされんごと苦しい時には、それでやっぱり楽になるもんですから。だからねその問題は握る所を握って、医者に掛かれと言うのです。だから私しは、その小西さにはもまぁそう言う事は、信心しよるけんお医者に掛かるとは、親先生に気の毒かてなんてん思いどんしなさいますなと私しが。
 けれどもそこん所をちゃんと握る所を握って、医者にかからんとね。はぁあの医者は上手じゃった、あの薬は効いたちゅうちから、神様の方を疎かにするからいけないのです。医者に掛からして頂くと言うと、本当に医薬も矢張り神様のお恵みだと、だからお医者さんが言わっしゃる事は、神様の言わっしゃる事と思うて頂きなさい。お医者さんが注射し御座るとじゃない、神様が注射して下さりよるとと思いなさい。
 そこに毒薬でも変じて薬になる様なおかげが頂かれるから、握る所を握ってからのおかげでなからないかん。それを私くしが、その事をお取次さして貰いよったら万年筆を頂いて、万年筆をこげん所を握って書きよる所、惟ぢゃ書けませんよ。万年筆もやっぱり下の方の此処を、こう持って書かにゃ書けんでしょう、所謂握る所を握って私くしは商売であり、握る所を握っての病院であり、握る所を握っての百姓である。握る所を握っての総てでなからなければいけない。
 こう云う風に頂きますと、お互い一生懸命信心しとるけれども、握る所を握ってないなあ、商売と信心の御教えとが別々になっとるなら、握る所を握っとらんからですよ。百姓しとってもそうです、握る所を握っとらんと百姓と信心とが、別にコロ放れとるです、どんなに立派に出来てもです、ありゃ安かけんでちゅうてから不平不足を言う。今年は大収穫じゃった、そればってんもう安かもんなけんでと。問題はその立派に出来て作って下さったと云う事にお礼申し上げときゃそれで良かってす。
 それが握る所を握っとかんとそう云う事になるです。今日は皆さんその握る所を握ると云う事をですね、握って所謂それは寝ながらでも、言うなら楽をしながらでも、おかげを頂こうと言う事をまず第一に自分の心の戒めとしとかねばならない。神誡と言う事を今日はそう言う風に聞いて頂いた訳です。そして寝ながらどん頼んだっちゃ、そりゃおかげは頂いても、信心は頂けないと云う事です。
 信心を頂かして貰うと云う事はです、先ず金光様の信心の何処をポイントにするか、どこを焦点にするか握り処ちゅうたらどこかと云う事を、私くしは段々解らして頂いたら、天地書附以外にはないと思うです。そこで天地書附をです、何時も所謂おかげは和賀心にありと仰る、その和ぎ賀ぶ心と云う物がです、何時どんな事柄どんな場合であっても、この心が出て来る。言うならばソロバンの弾き方とでも申しましょうか、情けないとか腹が立つとか云う答えが出て来た時には、計算間違えとる時です。
 又は一心が足らない時です。ね。同時に例えば文男先生の場合ですね、芯だけで書きよる字と言うなら、しかとむない、しかたもないちゅうが現在頂いとる様な、程度のおかげなら芯だけでも良い。心だけでも良い。もう腹を立てん、と言うだけでも良い。けれども、これにです、わたしはこの鉛筆をなら削る、所謂芯を削る側たんを削る。所謂身を削り心を削りと云う事になって来る時に、朝参りもさせて貰わなければ居られん、言うなら朝参りが外側を身を削る事なら。
 愈々心行を本気に取り組ませて頂くと言う事が、芯を削る事だと私しは思います。身を削り心を削りする、しかもその焦点はね、和賀心言うなら、天地書附にあると云う所をしっかり握って、医者にも掛かれねお薬も飲め、そこにはあぁおかげを頂いてと云う事になる。そりゃ皆さん私の方の三番目の息子がね、肉腫と九分九厘はもう駄目だと言われた時に、やっぱり医者に掛かったでしょうが。
 そしてなら、はあーあの医者は上手ぢゃった、あの薬は効いたとは誰も言わんでしょうが。本当に神様のおかげ頂かなければと言うでしょうが。それは握る所を握って病院に、医者に掛かっとるからですよ。その握る所を握らんなりに、例えば医者に掛かるとです、神様の方に参りよったつば、ちゃんと疎かにする人がある。もう神様にお願いせんでん医者に頼んだけんと言うところでしょう。
 そして例えば良うなったところで、あの医者は上手ぢゃった、お薬は効いたと言うだけしか残らんです。握るところを握ってすると、神様のおかげで助かったと言う事になります。神様のおかげで助かったと言う、その喜びの心は、又次の喜ばして貰えれるおかげを把握して行く訳ですから、どうでも有り難いいわゆる和ぎ賀ぶ心がね、どう言う場合でもその答えに出て来る様な、信心をさせて頂かにゃいけません。今日は一つ此の神誡の神の字から頂いた御理解です。
 同時に下は戒、戒めると書いてあるから、信心させて頂く者の一つの戒めとして、楽をしながらおかげを頂こうよう、信心を得様と云う様な甘い考えでは、成程おかげは受けても、信心の本当の徳は受けられない。信心に修行はつきもの、それを言うなら表行、心行。表行と言えば、表の行、それを最近、水を被ったり断食したりと言った様な事は、もう絶対に合楽ではもうしてはならない事になっとりますから、私は合楽での表行は、まずは朝参りだと思います。これがいうなら自分の身を削る事だと思います。
 睡る時間を削らなければお参り出来ませんから。ね。心行とは、最近言われる通り、それこそ心行は四六時中出来る。愈々心を削って行く所に行き方を身に付けて、握る所を握っての全て。握る所を握っての今日一日と言うことになって来る時に、その信心生活のです所謂輝かしいまでのおかげ、輝かしいまでの信心生活がなされる事になるのです。そう言う信心を愈々身に着けたい、そう言う信心を最近に、しかもしっかり、そこん処を握って外さん様な信心を頂きたいですね。
   どうぞ。